マタイ3章

3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、

3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。

 バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒野で、働きを始めました。その教えは、天の御国が近づいたので、悔い改めなさいというものです。

 御国に入ることは、御国を相続する意味で使われています。すなわち、この地上での神の御心を行う歩みに対して、報いを相続することです。

 バプテスマのヨハネが天の御国ということを語ったのは、イスラエルが天に目を向けていなかったからです。人々は、この地上のことだけに目を留めていました。ヨハネの教えは、そのことを鋭く指摘しています。

・天の御国と神の国

 両者は、同意語として使われています。「天の」という場合、地上と対比されています。天の御国ということばは、マタイの福音書だけに出てきます。テモテ第二の手紙に一度だけに出てきます。ユダヤ人は、地の相続を契約として与えられています。彼らの思いも、地上での祝福に目が行きがちです。しかし、アブラハムの信仰のように、御国を相続することを望みとして生きるべきなのです。福音書が明らかにしていることはそのことです。

 神の国は、四福音書のすべてに記されています。神の国は、人の求めるものとの対比ということを強調しています。神の御心に適った者だけが入ることができる国です。すなわち、報いを相続する国です。

 悔い改めは、神に向きを変えることを表します。イスラエルは、神の民でありながら、神の言葉に生きていなかったのです。それをやめて、神の御心に適う歩みをすることを表します。これは、異邦人とは異なります。異邦人は、神を知らない民です。神に対する信仰から始まります。イスラエルは、神を信じている民です。その民は、悔い改めによって神に向きを変える必要があるのです。異邦人にまず悔い改めを求めることはありません。もちろん、罪深い生活があるならばそれはやめた方が良いでしょうが、必要なことは、信仰です。

3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。

 ヨハネが神から遣わされた目的が紹介されています。彼は、預言者イザヤによって預言されていた人であるのです。彼は、主の通られる道を用意し、通られる道を真っ直ぐにするためでした。マラキ書には、次のようにも預言されています。

マラキ書

4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

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 彼を遣わす理由は、神様の裁きによってこの地が滅びないためです。父が心を子に向けることは、神の民として子を導くことです。それは、神を信じる者の責任です。子は、父を敬うのです。それは、神を愛することの実践です。

 ヨハネの働きは、重要で、彼は、奇跡は行いませんでしたが、イエス様の到来を告げたのです。その影響によって、主を信じる者が起こされたのです。主に立ち返る人々を多く備えました。

ヨハネ

10:41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。

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3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

 彼は、肉を楽しませる生活をしませんでした。この世の着物を着飾ることはなかったし、食べ物を楽しむということもありませんでした。イスラエルがエジプトを出たとき、エジプトの食べ物に憧れたのとは大いに異なります。彼の生活は、自分を喜ばせる生活ではなかったのです。

3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、

3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 人々が、ヨハネのところに来たのは、神の国に入る備えのためです。すなわち、神に喜ばれ、御国で報いを受けるような歩みをするためです。自分は、それにふさわしくないと考えた人たちが、彼の元に来ました。そして、罪を告白して、それを捨て、新しい歩みをすることを表明したのです。これは、悔い改めのバプテスマです。そのことは、ヨハネ自身が十一節に言い表しています。

3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。

3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

 人々の中に、パリサイ人やサドカイ人がいました。ヨハネは、彼らを見るなり。言いました。「まむしのすえ」と。まむしは、毒蛇ですが、悪魔を象徴してます。その末ということは、悪魔の働きをなす者という意味です。彼らは、呪われた者たちです。

 ヨハネが彼らに厳しい言葉を投げかけたのは、彼らが間違った教えによって、人々を堕落に導いたからです。彼らの教えは、「イスラエルは、アブラハムの子孫であって、やがて来る神の御怒りに会わない」というものです。つまり、永遠の滅びを刈り取ることはないという意味です。彼らの教えは、間違っていました。そして、そのように教えることは、民が堕落することを助長するものです。神の前に悔い改めることをしなくても、滅びることがないならば、誰が正しい生活を求めるでしょうか。

 彼らに求められたことは、悔い改めにふさわしい実を結ぶことです。間違った教えを捨てることであり、その結果、彼らが、正しくないならば神の裁きを受けることをはっきりと自覚し、正しい生活をすることです。彼らは、自分は、アブラハムの子孫だと心の中で思うことで、正しい生活を求めることをしていなかったのです。それは、たとい正しくなくても、アブラハムの子孫であるので滅びることがないと考えているからです。

3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。

 神様の裁きは、近いのです。斧は、もう木を切り倒すために根元に置かれています。その裁きに会うか否かは、その人が良い身を結んでいるかどうかにかかっているのです。良い身を結ばなけば、切り倒されて、火に投げ込まれます。イスラエルは、行いによって信仰を証明しなければならなかったのです。これは、滅びを意味しています。

3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。

 ヨハネは、彼の後からおいでになる方が、「さらに」力ある方であることを言い表しています。彼は、自分が神から遣わされた者であるという自覚がありました。それで、彼は、それにふさわしい生活をしたのです。彼は、自分のために何も求めませんでした。彼は、ただ神の御心のために生きたのです。彼より優れた人は、いません。しかし、イエス様は、それに勝る方です。彼は、自分をイエス様と比較して、僕の立場として考えても、なお、足りないことを言い表しました。靴を脱がせてあげることさえ、自分には、ふさわしくないというのです。その価値がないと言いました。

 その方は、水のバプテスマではなく、聖霊と火とのバプテスマを授ける権威があることを示しました。これは、人に永遠の命を与える権威と、永遠の滅びを与える権威があることを示しています。

 聖霊のバプテスマは、聖霊に浸されることを表現しています。そのように、聖霊に浸けられることは、聖霊のご支配に入ることを表しています。

 火のバプテスマは、火の中に浸されることで、火の中に投げ込まれることを表しています。それは、永遠の滅びです。

 ヨハネは、パプテスマという一つの主題に沿って、イエス様がもたらすものについて示しているのです。その権威があることを示しています。それで、永遠の命を与えることに関しても、聖霊のバプテスマという表現を用いているのです。聖霊に浸されることは、聖霊の内住、聖霊の証印などの表現で、信者は、聖霊に与っている者であることが示されています。それは、永遠の命を持っていることの保証です。永遠の命は、単に地獄の滅びに入らないことだけではなく、神の御心を行って神と共に歩み、御国で資産としての報いを受けることも含んでいます。

 ヨハネは、バプテスマに関連して聖霊のバプテスマという表現を使いましたが、祝福と呪いを対比させ、バプテスマという浸すことを表す表現で、聖霊に浸されて永遠の命を持つのか、火に浸けられて滅びるのかを対比されています。

 コリント第一の手紙では、もう少し掘り下げてその表現が使われています。

コリント第一

12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

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 信じた者が一つの体となるように一つの御霊によってバプテスマを受けました。ここでは、教会が御霊のバプテスマを受けたことが一つとされていることの説明となっています。御霊のバプテスマは、教会の全ての救われた者が受けることが示されています。これは、十章の荒野での旅での火と雲の柱が聖霊の比喩となっていることを受けての表現です。また、一つの御霊を飲んだことは、霊の岩から飲んだことがイエス様を信じた者が聖霊を受ける比喩となっていることを受けたものです。

 なお、御霊のバプテスマを五旬節に起きた御霊の降臨とする考えがありますが、その部分には、バプテスマという言葉を見ることはできません。

 この考えは、聖霊のバプテスマは、一度だけ起こったという考え方を強調するために、最初の目に見える御霊の降臨をバプテスマとしています。それは、新しく信じた者がその度に聖霊のバプテスマを受けるのではないということを説明するためです。そして、後の人も聖霊を受けたことを「すでに起こった聖霊のバプテスマに与る」と説明します。しかし、このことを説明する根拠は示されていません。このような考えが出てくる背景は、聖霊のパプテスマが個別に聖霊を受けることであるとすると、今日の信者が五旬節の日と同じように、異言を話せるとする教えを助長するものであるからです。しかし、その教えを否定するあまり、間違った解釈を導入することは、もっと悪いことです。聖書が完成した今日、聖霊が異言によって証しすることは、必要ありません。聖書は、完全であり、神の御心は、聖霊によって、聖書の言葉で知ることができるのです。しるしは、不要なのです。また、「家を満たした」という表現を聖霊が家を満たしたので、そこにいた人たちは、聖霊に浸されたとしますが、家を満たしたのは、音です。聖霊ではありません。聖霊が、物理的な家を満たすことには、意味がありません。

 また、聖霊については、全ての人が一つの御霊を飲むものとされました。これは、荒野で岩から出た水を飲んだことに関係しています。全ての人がそうしたのです。それは、一人ひとりの内に御霊が内住したことをさしていますが、別個の御霊が内住したのではなく、ひとつの御霊が全ての人に内住しておられます。これは、個々の信者の経験です。それは、渇きが満たされることと関連してその記事があるからです。

 

使徒

2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。

2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

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3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

 この方は、脱穀場を隅々まで清められます。これは、逃すものがないことを表しています。庫に納められるか、殻として火に焼かれるかのいずれかです。

3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。

3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」

 イエス様は、バプテスマを受けるためにヨハネの所においでになられました。ヨハネがそれを拒もうとしたのは、ヨハネは、イエス様が聖い方であり、自分が不完全な人間であることをわきまえていたからです。ですから、ヨハネ自身悔い改めが必要であると考えていました。ですから、ここでヨハネが想定していたバプテスマは、悔い改めのバプテスマです。

3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。

 イエス様が、「今は」と言われたことで、これが特定の目的を持って、なされたことを表していて、それは人に対する証しのためです。「ふさわしいのです」という言葉がそれを表しています。それは、「すべての正しいことを行う」という証しです。イエス様に罪がないことは、神の前に明らかです。しかし、人の前には明らかではありません。イエス様を神と認める人に対しては、この証しは、不要なのです。むしろ、イエス様を人と見ている人に対しても、人々が耳を傾けて、語る言葉を心を開いて聞くことができるためです。イエス様を人として見ている人々は、バプテスマを受けなければ、人として正しいとはみなさないのです。そのような人々のためにバプテスマを受けられたのです。これは、福音の証しに躓きを与えないためです。宮の納入金を収めたこともそうです。まだ、イエス様を正しく見ることができない人々への証しのためなのです。躓きを与えないためです。

3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。

 イエス様が水から「すぐに」上がられたのは、聖霊がしるしを示すことが速やかに行われるためです。聖霊を待たせないためです。その時、天が開けました。聖霊は、しるしとして天から降ったことがわかります。それは、イエス様が、父の御心を行うことを表すためです。もともと聖霊に満たされていたのですが、印として、御霊に満たされて働きをなすことが現されたのです。

 聖霊は、鳩のように降られました。鳩は、イエス様が表現されたように、「鳩のように素直でありなさい。」という言葉に基づいて理解することができます。鳩は、素直に従う従順を表しています。イエス様は、聖霊に満たされて、父に全く従われる方であり、父の御心を行われる方であるのです。聖霊が鳩の形をしていたのは、イエス様が聖霊によって、神の御心に従順に従われることを表しています。ちなみに、聖霊は、異言を語らせる時は、分かれた舌のしるしを現されました。それは、異なった国の言葉で語らせるというしるしを行うのが聖霊の働きであることを示すためです。

 ノアの時代に方舟から放たれた鳩は、聖霊の比喩と考えることができます。神の言葉に従う従順を持つ人にとどまられる聖霊の働きを表しています。鳩は、漂流物、特に死体にはとどまりませんでした。神の前に死んだ者にとどまられることはないのです。そこで豊かに働くことはできません。最後にとどまったのは、オリーブの木です。オリーブは、ゼカリヤ書四章に示されている二本のオリーブの木のように、油を注ぎだして燭台に火を灯す「油注がれた者」を表します。聖霊によって選ばれて、聖霊の御心のままに事をなす人を表しています。そのような人のところにとどまられるのです。

 聖霊が鳩の形をして降られるのは、聖霊の導きのままに歩む者にだけです。鳩は、聖霊によって業をなすことの比喩であるからです。

3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 父なる神様がこのように証しされたのは、父の喜びを表しています。「愛する子」は、喜ばしい子であるからこのように証しするのです。人は、出来の悪い不良のような子を愛していたとしても人前に愛する、喜ぶ子とは証しできません。父が、このように証しされたことは、父の喜びを表しています。そして、父は、喜ぶぷことを言葉によって言い表されたのです。それは、聖霊が降られた直後でした。父は、父の御心を喜びとされて従われる主イエス様を喜んでいたと分かります。